好きって言えない!30代の少女漫画シネマレビュー

毎週土曜日、更新!レクター&クラリスによる30本の胸キュンレビューです

番外編「桐島、部活やめるってよ」を30代男女が勝手にレビュー

今回は番外編!

多くの少女マンガの舞台である”高校”だが、高校映画の新たな金字塔となったのが『桐島、部活やめるってよ』だ。少女マンガ映画ブログとはいえ、ここまでの支持を受けている高校映画を避けては通れまい。
10代からは共感を呼び、中高年の評論家からは絶賛された本作を30代の2人は遠い目でどう見るか?

レクターのレビュー

どんなに絶賛されようが、この一点だけは揺るぎませんよね?
山根貞男キネマ旬報誌の時評で書いていたことが全て。つまり、登場人物の大半が、物語が進行にするにつれどんどん嫌な人間になって終わってしまっている。原作が評価されたのは、現代の高校生活における、様々なグループ毎のリアルを、ついこの間まで高校生だった作者が描いたからだった。にもかかわらず、映画は途中までこそ原作のエッセンスを踏襲しているものの、結局、帰宅部である東出くんと映画部の話に落ち着いてしまう。そして、他の生徒たちは「その他大勢の悪役」にされてしまっているのだ。
映画秘宝映画芸術キネマ旬報の三誌が年間ベスト10に挙げたように、本作は世代を問わず支持された映画だ。それでも、本作が「東出くんと映画部以外の全員が悪者になって終わる物語」という一点は、絶対に揺るがないし、それがテーマに適したプロットかと問われれば、いかなる好意的な解釈も成り立たない。どうしてこんなことになったのか?
それは、群像劇を収束させるための手段として「共通体験」を持ち出そうとしたのに、その「共通体験」が機能していないからだ。ここでいう「共通体験」とは、違う階層、集団に位置する人々を繋ぎ合わせ、力技でオチをつけるための大きな現象のことだ。例えば『マグノリア』のカエルであり、『ナッシュビル』の銃撃である。しかし、『桐島』では、「共通体験」としての「桐島の目撃談」が終盤へと向かうための単なるきっかけでしかなく、登場人物の心を繋ぎ合わせる力を持たなかった。
あるいは、それがメッセージなのかもしれない。高校生活における異なる系統のグループ同士とは、相互理解が不可能な集団なのだと。だとしても、東出くんと映画部の交流で終わるラストとは矛盾してくる。
本作がロールモデルにしたであろう、『ブレックファスト・クラブ』を見返してほしい。映画版『桐島』のキャラクターたちが、いかに記号表現に飲まれた無機的な存在であることかが分かるはずだからだ。

クラリスのレビュー

そう、女の子はどうでもいい男子のことは透明人間のように思っている
 賛否で言うと私は「桐島」賛成派。理由は単純、見ていて面白かったし、普段は映画を見ない人にも薦めやすい面白さだから。社会現象になるほどヒットしたのは、継ぎはぎしていくことで全体像が見えてくる造りや、楽しくアレンジしやすいタイトル(「人のセックスを笑うな 山崎ナオコーラ」以来のキャッチーさ)、桐島出てこないのかよという突っ込み待ちの余白が、SNSの時代にうまく合ったのだろうなと思う。それは肌で感じている人が多いのでは。しかし題材に定めてこの映画について私が人に伝えたいことはなんだろうと考えたとき、なかなか出てこなかった。
 吉田大八監督の映画は抑圧されている人の話というイメージ。怪物的な姉や、子どもの頃の辛い記憶、気づまりな夫婦生活、そして3年間同じメンバーで密閉される高校生活など、抑圧するものは映画によって形を変える。そこから抜け出すのがもちろんラストだけど、「桐島」ではどこへも脱出できず、学生生活は続くのだ。
 どこかに10代の自分がいる気持ちで辛くなったり切なくなったりするが魅力の映画だけど、実際には私の学校には分かりやすい階層はなかったし、私は他人の目をそんなに気にしていなかった。自分を持て余して陰鬱な日々、椎名林檎が歌うようにクラスメイトは死んだ魚の目をしているのかと思っていた。それと比べると「桐島」の高校生達は、人から見て自分がどういう属性かということを重視して生きている。
 今となっては「世代が違うんだね」「しょせん子どもが狭い世界で小さいことで悩んでいるだけ」と言ってしまいそうになるけど、そこに今いる子にとってはそれが世界の全てで、その中で自分の役割を演じられなくなったら逃げるしかないというのが人生の切実。私は私で、おばさんになっても悩みが生まれてそれは高校生の私には想像もつかなかった。悩みは尽きず、少しでも打開しようともがき続けるのが人生ということかな。つらーい。